気持ちがよくてちょっと不安な世界をどうぞ ――オカワダアキナさんの本

 紙をきれいに剥がされた針金のポイは、すぐに手作りとわかるやわらかな曲線をしていた。
知り合いのたこやき屋は金魚すくいもやっていて、わたしはよくそこへしゃがみこみ腕を浸して用済みになったポイを弄んで暇を潰した。意味もなく輪っかに水をくぐらせつづける。無意味だけどキモチイイこと。
先日オカワダさんと金魚の話をした。そのまえには海辺が舞台の作品を一緒に作らせてもらい、そのまえには水玉の話をしていた。どうもオカワダさんのまわりは水だらけなようだ。なら「水」というモチーフが好きなわたしがオカワダ作品を好むのもそりゃあ当然と納得する。さて、今日ははじめてのひとにもその作品の魅力をお伝えしたいのだけど何から話そう。

 ご本人がファンを公言しているせいもあるが、オカワダさんの文章にはほんのりムラカミハルキの匂いがする。じつは自分はちょっとハルキが苦手なのだけど、オカワダ世界は細部で似つつも全体としてはさほどそれを感じさせないでくれる。「計算し尽くし統制しきったあとの夾雑物のない居心地悪さ」とでもいうようなあの感じがない。「そりゃあそうでしょう無理言わないでください、うささん。そんな大望持ってなんかいません!」とか、あるいは「やりたいけど自分にはやれないと潔く諦めてますよ!」とか、ご本人はおっしゃるかもしれない。が、わたしにとっては理由はどうあれこのことが幸いだ。(この部分についてはもっと強くそのやさしさについて触れたいが、また別の機会に)
では「計算や統制のない世界」なのかといえばそれも違う。計算や統制は別の意味でしっかりされ、読者は躓くことも不要に迷うこともない。

眼に入ったときどんなふうか。
音にしたときどんなふうか。
イメージとなったときどんなふうか。
それらがいつどこでどんなふうに重なり合うか。

そういったことが事細かに練られている。
詩のようである。散文のようである。そしてたしかに小説である。
絵のようである。音楽のようである。だけどたしかに小説である。


 そんな魅力的な作品群のなかから、夏のオワリにおすすめな「水ギョーザとの交接」の話をしよう。
14歳の少年と母親の弟である叔父さんとのセクシャルな交わりをストレートに描く。未成熟な主人公の語りによって真理をあらわにするのは裸の王様と同じだ。でも童話じゃないからオカワダ世界の語り手は純粋無垢なこどもじゃない。己のなかにも同じ罪があることをすでに自覚しつつ未だ社会の枠からは逃れてある、そんな微妙なとしごろの語り手がときどきラインを踏んで語ってしまう。それが楽しい。ネタバレを完全回避しながら雰囲気を伝えられる例を引こうか。「水ギョーザとの交接」の続編の宣伝コピーだ。
「夏休みにセックスしてしまいそれきりだった叔父さんが、抜き打ちで家にやってきた。ちゃんと好きだと言いたいのに、言葉より先にちんこが出てしまう!」
1行で終わらす宣伝コピーがこれなのだから中身はお察し。しかしハチャメチャだからこそ、先に述べた本当に見せたい奇麗なものが際立ってくる。

さて、終盤では主人公がくたびれた肉体を持て余す叔父に語りかける。綺麗だよ、と。
綺麗なものに接すること、その気持ちを頭の中で言語化すること、さらに言葉にし相手に伝えること。これもまた現実の大人には難しい。とても勇気が必要だ。だから読んで励まされる。励まされて口にする。そして今これを書いている私自身が、まさしくそうなのだ。
オカワダさんの作品の多くは、読むと股の間にすよすよと風が吹く。気持ちが良くて、でもちょっと不安になる。いつの間にかパンツを穿いてしまった猿たちがひとときその感覚を思い出すための、とてもステキなちょとイケナイ本。表題作はそんなタイプのオカワダ作品の代表だ。ぜひ。


↓今週末のイベント@あまぶんでの作品ページはこちら
http://necotoco.com/nyanc/amabun/bookview.php?bookid=171


追記:上記作品は男性同士の性関係が主軸になっているので、それと別に万人向けの本もひとつ紹介しておこう。「飛ぶ蟹」

ちょっと不思議な話をいくつか含んだ短編集。オカワダ世界の豊かなイメージをあっさりした短編で重層的に楽しんでいただけます。