湛む


水溜りがあるとしゃがんで覗きこむ。地面にぽっかりあいた穴は、どこまでも落ちそうで怖く美しく目が離せない。そんなふうに小さいころから水に湛(しず)む夢想が好きだった。
さて、今日はとある廃墟のことを話そう。
昭和の初めに港を見下ろす山に建ったホテルは、戦争での一時休業と再開を経て廃業となっていた。訪ねたのは廃業から更に10年経過した初夏で、すでに写真集が出るほどその筋では有名だった。熱望する友人につきあい、何も知識を持たずにでかけたのが幸いしたと思う。

夏草を踏み分けて辿りついた廃屋はドアをひとつ潜るたびにひんやりした湿り気を増して洞窟のようだった。突き当りの部屋に入って息を呑む。うす暗い部屋の窓一面がエメラルドグリーンにゆらめいていた。デジャブ――海に沈んだ客船の一室、映画で見た光景。

それがわたしのロマンチックな幻想でもないのだと知ったのは、その後詳細を調べてからだ。建物は神戸が一番華やいでいた時代(誕生した1930年はアールデコの全盛期)に、花形だった大型船を模して造られていた。内部装飾も、のちにだが廃船になる豪華客船の内装を買い取って整えたものらしい。その構造や細部デザインのあちこちが「豪華客船」を匂わせていたのだ。

 
 
 
  

往時にはまわりの木々も手入れがされ、内部も明るくきらびやかだったにちがいない。こんなふうに――海底で浚われる船のように――緑に湛む姿を、設計者は想像もしなかったんじゃなかろうか。
暗がりをくぐりぬけ、最上階の出口を光の方へ踏み込んだとき足元から真黒な影が次々と剥がれていっせいに空へ飛び立った。黒い蝶の群れ。むこうには海。


追記:注意として書いておきますが、おおかたの廃墟とおなじく建物に入れば不法侵入となります。また現在建物はしっかり管理がされ、保存のために寄付を募って見学会など催されているようですので興味のある方はお調べください。