M×U ― 砂を折る ―  応答記事にかこつけて

こんにちは。

短歌と写真のコラボが九月の末に急発進してアワアワしながらやってきたんですが、ちょっとペースが掴めてきたかなという今日この頃です。せっかくなら「ささやかで個人的な、日々の経験からくる感情の書き留め」にとどまらないものにしたいなと欲も出ています。距離感が難しいですけれどもねー。春に最終回を迎えるときには、今より自在に距離を操れるようになっていたらいいな。

さて、前回の短歌にもいつも通りばにーさんから応答をいただいていたのですが、それにかこつけて書きます。
(ばにーさんの応答記事はこちら↓)

usaginooto.hatenablog.jp


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ちょうどいい題材なので今日は「読み」について一つお伝えしておきたいと思います。念のため、です。
短歌に限らずすべての表現の受容の仕方は受け手によりさまざまです。発信者の意図とはかけ離れた「読み」がなされます。私は基本的に表現は受け止める側のもの、と思っています。


上の短歌の続きはばにーさんの想像通り「忘れることができるのか」でした。そしてさらに続ければ「忘れることなどできない(だろう)」です。つまり揺らぎつつも「忘れたい」<「忘れられない」、そんな思い出があるということの貴重さを噛みしめている歌として私は書きました。この歌を読んだ人の何割が同じ想いを抱いてくれるかわかりませんが^^
これを「悲しい歌だ」と思うか「悲しさもあるけど愛もあるからどちらでもない」と思うか、はたまた「それさえ通り越した明るさを感じる」と思うか、それは個人の経験やそれを読んだ時の状況などによって変わってきます。それらすべてが正解です。


今のところ、ばにーさんは短歌に毎回丁寧な応答をくださっていて当初そんな予定ではなかったのでご褒美のように楽しく読ませていただいています。ありがとうございます。
そしてそのなかで「この歌はこういう感じだろうか」といつも推量をされるんですけど、それがたとえこちらの意図と大きく外れていたとしてもちっとも問題ではありませんので今後も思いのまま書いていただきたく思います。
「コラボは違う個性が出会うのが面白いんだから、違うことを楽しみましょう」ってばにーさんにはお伝えしていましたが、当然「読み」のズレもそれに含まれます。わたしはそれを「面白い」と楽しんでいますので、これからも詠み手として「~~というつもりだったんです」と言うことがあるかもしれませんが、それは「ズレを楽しむ気持ち」で言及しているのだと受け止めていただきたいのです。


このめんどくさい話をわざわざするのは、こういったことで以前揉めた経験があるためです。詠み手と読み手、さらにそのやりとりを読んでいる読み手、すべてのひとがこの前提を持っているのが理想的ですが実際には難しい。せめて私とばにーさんの二者間ではしっかりとこの意識を共有したいと思っています。よろしくお願いいたします。





あと、ばにーさんへ(蛇足ですがw)

私がもし「きちんと」「自分と向かい合って」生きていたら殴り殺しにかかってやっかい極まりないのでそんなことはしません。むしろきちんと逃げているんだと思います。それでいいしそれが大事と思っています^^